2013年7月8日月曜日

リフレーション政策は失業率を下げる

すでに一九二八年末から、スウェーデンの消費者物価指数は緩やかに下降を始めており、卸売物価指数は、急激に下がっていた。その背景にあったのが金本位制の呪縛で、デフレと通貨高が起きていたのである。そこに、恐慌が押し寄せる。一九二九年から一九三一年の間に、鉱工業生産は21%も下落し、失業率は跳ね上がった。これに対してスウェーデン財務省は、一九三一年金本位制からの離脱を宣言するとともに、物価水準の目標を掲げて、それに誘導しようとした。消費者物価指数は、一九三二年から三三年に下落が見られたものの、その後上昇し、また、卸売物価指数は、一九三一年以降下落が止まり、しばらく横ばいを続けた後、一九三三年春から上昇に転じた。一九三三年春には30%にも達した失業率は、そこから下降し始め、一九三七年には半分にまで下がった。鉱工業生産も、一九三三年末には、大恐慌前の水準を回復し、一九三四年末には、さらに28%も増加したのである。

デフレに対して有効な対策が採られなかったアメリカでは、一九三二年には、鉱工業生産が、ピーク時の半分にまで落ち込み、恐慌前の水準を回復するのに、一九三六年までかかったのとは対照的である。スウェーデンのケースは、デフレ下の不況では、インフレ・ターゲットにより積極的にインフレに誘導する政策が有効であることを示している。産業基盤自体が弱ってしまわないうちに、デフレから脱出したことで、急速な経済の回復を認めたのである。フリードマンが言うように、失業率が、インフレ率ではなく期待インフレ率に左右されるのは事実だろう。だが、それは、失業率とインフレ率がまったく無関係な動きをするということではない。グラフは主要先進国全体における、一九八〇年以降三十年間のインフレ率と失業率の変動をみたものである(IMFデータを使用)。

インフレ率と失業率が、トレードーオフの関係で逆の動きをしていることがわかる。オイルショックといったインフレ率を激変させてしまう要因やグローバル化の影響を取り除けば、フィリップ曲線は健在なのである。実際、後期のサッチャー政権が示したように、インフレ率を上げるリフレーション政策は、失業率を下げるのに有効であった。ましてや、期待インフレ率がマイナスのデフレ状況を放置してよいという理由は見当たらない。当時のイギリスのように、10%を超えるインフレ率であれば、それ以上にインフレが進行することは避けねばならないが、日本の場合は、ずっとデフレ、つまりマイナスのインフレが続いてきたのである。その状況では、インフレの心配をする必要はほとんどなかったわけだから、躊躇なく期待インフレ率を高める政策をとるべきだったのである。それは、デフレと雇用問題を一挙に改善できる、まさに打ってつけの政策なのである。

アメリカはどうやって大恐慌から抜け出したか一方、アメリカは、大恐慌後のデフレ不況からどのように脱出したのだろうか。大恐慌におけるアメリカ財政金融当局の当初の対応は、甚だしい失敗例として知られているが、それは日本に起きたことと共通する点がある。大恐慌は、日本のバブル崩壊やアメリカのサブプライムーショツクと似て、株の暴落を機に、住宅投資バブルが弾けたことが背景にあった。破産するものが続出し、銀行も次々と潰れた。資産デフレとクレジットークランチが急速に広がったのである。当時のアメリカには、預金を保護する仕組みもなかったため、信用不安の拡大は留まるところを知らなかった。

ところが、そうした中で、財政当局は、税収減少による財政赤字の方を心配し、こともあろうに増税や財政支出の削減を行ったのである。そのため、さらに、消費や投資の低下を招いた。金融当局も、マネーサプライが四年間で25%も減ってしまっても、何ら有効な手立てがとれなかった。一九三三年、ルーズベルト大統領が就任すると、有名なニューディール政策に着手する。しかし、公共投資の規模はそれほど大きくなく、政府購人でみると、一九三三年は前年比で微増にとどまり、一九三四年に、ようやく一割程度増加(実質レベル)しているが、GDP比でみると、政府支出の割合は15%台で、その増加幅は1%程度に過ぎない。一九三五年には、さらに全国規模に公共投資が拡大し、軍事予算の増加もあって、一九三六年には、一段と政府支出が増加していたが、それでも、GDP比でみると、ほとんど変わっていない。一九三三年を底に、個人消費や民間投資が回復しつつあったが、一九三八年には、再び停滞し不況色が強まった。