2014年12月19日金曜日

ロボット導入の三原則

日産座間工場の工場長の話によれば、よその企業との競争があるので、これからもロボット化は″逐次”すすめていく、とのことである。これまでの自動車業界のロボット化は、プレス、溶接、塗装とすすめられたが、こんごの問題は、組立てロボットである。わたしの短い経験によっても、ボルトをさしこんで、ナットランナーで締めつけるだけの単純な作業でも、ボルトの精度かネジ穴の精度が、コンマ以下のミリ単位での誤差があるだけで手こずってしまう。そんな誤差をカバーして、すばやく締めるのが不熟練労働のなかでの熟練である。そこまではロボットの代用はまだできていない。

とすると、精度をさらに完璧なものにするか、時計やカメラのようにプラスチックなどの射出成型によって工程を短縮するしかない。当面は組立てロボットよりは、まだまだ人間のほうが安くつく。工場長によれば、ロボット導入の三原則とは、①労働環境が悪く、疲労感のたかいところから入れる。②精度をたかめる。③生産性向上。という。しかし、組立てロボットよりも人間のほうが安い以上、コンベア労働がどんなに疲労度のたかい苦役であったにしても、経営者はコンベアを廃止しようとはしない。ロボッ卜は一台一五〇〇万円までが導入の限度とのことである。この工場の生産性は、まいとし、一〇パーセントずつあかっている、という。

日本的な合理化の異常さは、外国からみるとよく認識できる。たとえば、おなじコンベア労働でも、アメリカの自動車工場は、もちろん制服はない。だから、みんなかってなシャツを着たり、かってな帽子をかぶっている。黒人がいたり、アラブ人がいたり、いろんな人種がいて、思いおもいの服装をしている。コンベアで手を動かしながら葉巻をくわえている労働者もいる。フォークリフトの運転手はパンをかじりながら運転している。とにかく雑多な印象を受ける。

ところが日本の自動車工場は、一八~二五歳前後の若い労働者が、おなじ制服でほぼおなじ表情でまったくむだなく手足を動かしている。だから、取材にきた外国の記者たちは、「日本の工場は軍隊組織だ」といって帰るのだが、日本の工場が軍隊組織だといういい方は、日本の軍国主義にたいする反感がふくまれているオーバーな表現だ、とわたしは思っていた。

2014年11月19日水曜日

法律家が育つ社会の環境とは?

陪審制が民事の領域にも実現すれば、一般市民の感覚が法律制度の運営に反映されることになるのです。そうすれば、裁判官による裁判も大いに刺激を受けることでしょう。現在の制度では、そういう刺激を受ける機会かおりません。

陪審制によって、裁判官と一般人との風通しが良くなります。そのために、アメリカの法律は非常に大きな変革を遂げてきたという面があります。例えば、PL(製造物)責任で無過失責任が定着したことや、懲罰的賠償が定着したことも、陪審制の運用によるところが多分にあります。

アメリカは国家の運営が相当難しい多民族国家でありながら、バックボーンとしての市民社会のインフラがしっかりと備わっているように思うのです。少なくとも、さまざまな不合理や不正には堂々とチャレンジできるルートが開かれています。そこが日本などよりも進んでいるし、見習うべきところではないかと思うのです。

法律家が自分たちだけで裁判制度を運営すると、法律制度そのものがダイナミックな動きになりません。逆にいうなら、一般の人たちが民事裁判においても判断権者として訴訟手続に参加し、その結論が法律関係業界の人々の収入にも関係してくるということになれば、司法を運営する法律専門家も、うかうかしてはいられません。

それこそベールに包まれた中で「仕事のクオリティー」に関係なしに権威が保たれる、というわけにもいかなくなるでしょう。司法の権威を保つには、それに見合ったしっかりとした仕事をせざるを得ないということになります。

2014年10月18日土曜日

円高対応という守りの選択

このような現実を迎えなければならなかったのか。円高対応という守りの選択ではあったが、対アジアの直接投資は、本来は円圏成立のための基礎的条件を醸成するはずであった。ところが、アジアが実質ドル圏であるために、日本の投資はかえって日本経済をドル圏に深く組み入れる結果となっている。

ここで想起されるのが、80年代、マレーシアのマハティール首相が提唱したEAEC(East Asian Economic Caucus)構想である。この「束アジア経済協力体」構想は、当時、アジアにおける円経済圏への展望を示したものとして注目された。

こうした動きが実を結んでいれば、EAECの域内では、97年のような危機は回避され、円基軸の安定した投融資の恩恵を日本も域内国も、ともに享受できたはずである。また、そうした円経済圏を背景としてはじめて、日本は円の対ドル・レートを相対的に安定させ、世界最大の債権国としての本来的な対外投資を継続することができたのではないかと思われる。

しかし、この構想は、日本がASEANとアメリカの板挟みにあうなかで頓挫した。円経済圏の創出は、アメリカの死活的利害に関わるため、べー力ー国務長官が宮澤首相に強力な圧力をかけてこれを断念させたのである。

EAECは太平洋を分断する、APEC(アジア太平洋経済協力閣僚会議)こそが双方の利益にかなう、これが一貫したアメリカの立場であった。APECは、もともと日本の通産省がオーストラリアと組んで実現したものだが、すでにアメリカのコントロール下にある。

2014年9月18日木曜日

労働契約成立という法律効果

この点について、図表にもとづいて説明します。まず、同図田の場合には、1年毎の契約が5年間更新されてヽ6年目の更新がなされますとヽその契約を更新した途端にその契約は、「通算5年を超える契約」をしたことになりますから、その時点で労働者には無期転換申込権が発生します。同図の①の更新によって契約された期間中であればいつでもこの申込みができます。そして、その期間中に②の申込みがなされますと、③の5年を超えた有期契約の満了日の翌日を就労開始目とする④のような無期労働契約が成立します。使用者側では、この申込みを「承諾したものとみなす」とされていますので、申込みがあった時点で③の転換日を就労の初日とする無期労働契約が成立したことになります。ただし、この申込み時点で無期契約が成立するといっても、それは民事上の契約成立であって、③の転換による就労開始日の始期が到来しないと実際の契約はスタートしません。

また、図表の②の例のように、3年間の有期労働契約を締結していた労働者が3年の期間満了後、再度3年間の有期労働契約を結んだときにも、この契約は通算「5年を超える」労働契約を締結したときに該当しますから、実際にいまだ5年を超えて働いていないときでも、「5年を超える労働契約を結んだ時点」で無期転換申込権が発生します。図表の①の更新がそれです。この契約期間中②の申込日ができますが、無期転換が行われるのは、現在結んでいる5年を超える有期労働契約が満了した日の翌日付ですから、同図の場合には、次の3年の契約期間満了の翌日の7年目の初日が実際の就労日となります。つまり、先日付の就労開始日とする無期労働契約の成立となりますので、採用内定契約と類似です。

倒使用者は「承諾したものとみなす」とはこの無期転換申込権は、該当する労働者が無期労働契約の締結の申込をしたときは、使用者は当該申込を承諾したものとみなすとされ、「現に締結している有期労働契約の契約期間が満了する日の翌日から労務が提供される無期労働契約が成立することを規定したものであること。」(通達)とされています。労働者からこの申込みがあると、使用者が承諾したものと法律でみなされてしまい、使用者に裁量の余地はなく、無期契約を申し込んだ当該労働者と使用者との間に「期間の定めのない労働契約」として成立するのです。そこで、このような労働者の一方的な申込みによって無期労働契約が成立するという法律関係ですから、一方的行為によって法律関係を創設するものであるため、このような権利は形成権ではないかとの説があります。

しかし、形成権とは、「権利者の一方的な意思表示により一定の法律関係を生じさせる権利」(有斐閣『法律用語事典』)とされ、一方的行為により一定の法律関係の変動、すなわち、法律関係の発生・変更・消滅を生ぜしめうるものでありますが、「労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する。」(労契法第6条)という合意を成立要件としますから、一方的な意思表示によって成立するものではありません。今回の法改正でも、この原則は変更しておらず、新しい無期労働契約も合意を契約の成立要件とする前提は変更しておりません。

そこで、条文上もこの法律上の原則を貫いて、法律上は労働者が、「労働契約の締結の申込みをしたとき」に、これを「使用者は当該申込みを承諾したものとみなす」(みなすとは、A(ある事柄や物等と性質の異なるB(他の事柄や物等)を一定の法律関係について同一のものとして、Aについて生ずる法律効果と同一の法律効果をBについて生じさせること。)(同前書)とされ、申込みと承諾という基本的な契約パターンは変更していません。したがって、この場合には法律上、使用者の承諾という法律行為はないが、承認したものと同一の効果を法律によって発生させる。)という承諾の「擬制」を生じ、労働契約成立という法律効果が生ずることとなるのです。

2014年8月23日土曜日

スペシャリストからゼネラリストの時代へ

わたしは、SEとしていろいろな業務を経験したが、基本的には後者のタイプのSEだった。「勝ち組」かどうかを自分で判断するのは控えたいが、少なくとも担当した保守業務では誰にも負けないトップの腕を持っていたと自負している。つねにトップであることは、プレッシャーもかかるし、体力的な負担も大きい。困難な任務が大量に、いちばん腕のよい人間に集中するからである。

わたしの場合も、夜中の電話で叩き起こされることは日常茶飯事で、あまりに勘が冴えているときは、真夜中の三時、四時でも電話が鳴ると同時に受話器を取っていたものだ。自分の両腕に何億円もの利害がかかってプレッシャーに押しつぶされそうになったこともあるし、前に述べた例のようにタイムリミットの数分前にようやく問題を解決するような、心臓が凍りっく経験、綱渡りのような思いを数え切れないほどしてきた。だが、そのような経験を積み重ねることで、担当システムに関しては超一流の腕を誇れるようになったし、一瞬でシステムの構造を見透かせるような「レントゲンの目」も持つことができた。だから、派手な実績こそないが、保守業務を経験できたことは自分にとってプラスだったといまでは思っている。

腕を上げると仕事が増える。仕事が増えるとまた腕が上がる。それが理想的な循環である。その循環にうまく自分を乗せることができれば、SEとして急激に成長できる。保守業務に回ることがあれば、何がなんでも仕事を極めることだ。そしていちばんの凄腕をめざす。そうすれば、必ず「勝ち組」に残ることができる。

スペシャリストの時代が終わろうとしている。企業社会は、一九八〇年代前半まではゼネラリストの時代だった。これといった突出した技能があるわけではないが、どのような仕事でもある程度のレベルまでこなせる万能選手、悪い言い方をすれば「器用貧乏」がサラリーマンの大半を占めていた。そして、サラリーマンの目標は誰も彼も、より上位の管理職へ出世するという画一的なものだった。また、組織構造の多くは年功序列制に依存していた。

しかし、一九八〇年代後半から、ある特定の技術に長け、限定した業務に特化するスペシャリストが強く求められるようになった。ゼネラリストばかり増殖した反動と言える。企業は個性を重視し、ひとりにすべてを求めるのではなく、それぞれ得意分野を持つ複数の人間に業務を振り分ける、分業制をとるようになった。総合職、専門職と呼ばれる人事制度が生まれたのもこのころである。

2014年7月26日土曜日

未来を展望する

経営陣は産業の未来を展望しようと競い合っている。経営陣は明日のビジネスチャンスについて、先見の明に富み、裏づけがしっかりしていて、かつ独創的な未来図をつくり出そうと競い合っている。この読みがあるからこそ、企業力を育てようと先行投資し、活動にも焦点が定まり、投資計画に一貫性が生まれ、戦略的提携や買収の決断に当たっても指針が生まれ、ご都合主義に走って横道にはずれることもなくなる。産業の未来を展望するために必要十分な投資を行わなかった経営陣はいずれも、先見の明に勝る競合他社の思うがままになっていることにやがて気づくことになる。

意識しているかどうかは別として、IBMのルー・ガースナーのチームは、九〇年代初めにアップルコンピュータのマイケルースピンドラーのチームと競っていたのであり、その彼らもヒューレットーパッカードのルイスープラットのチームと戦っていた。彼らはまた、EDSのレスーアルバーサルのチームと戦っており、その彼らは、アンダーセンーコンサルティングのジョージーシャヒーンのチームと情報技術産業の未来図を描こうと戦っていたのである。

シアーズのアーサー・マルチネスのチームは、ウォルマートのデービッドーグラスのチームと競争しており、その彼らは、Kフートのジョセフーアントニーニのチームと大量小売業の未来の読みを競い合っていた。メルクのロイーバゲロスのチームはスミスクラインービーチャムのボブーボーマンのチームと競い合っており、その彼らはグラクソのサー・ポールージロラミのチームと、これまでとはまったく違う新しいヘルスケアの未来の環境を読み、それに備えようと競い合っていた。

ペル・アトランディックのレイースミスのチームは、AT&Tのボブーアレンのチームと競争し、その彼らは、USウェストのリチャードーマコーミックのチームと、「インフォテインメント」(infortainment information =情報とentertainment =娯楽を組み合わせた造語)サービスの未来を構想し、そこから利益を得ようと戦っていた。アメリカン航空のロバートークランダルのチームは、ユナイテッド航空のスティーブンーウルフや英国航空のコリンーマーシャルと、世界で最初の真にグローバルな航空会社をつくり上げようと競い合っていた。

そしてさらにこれらのチームはみな、過激なほどに変貌を遂げた明日の産業の主導権をとろうとしつこく現行勢力に挑戦する、星の数ほどの新規参入者や新興企業と戦っていたのである。数十億ドルもの新しいビジネスチャンス、世界中の人々の生活を改善するチャンスがかかっていた。それをモノにできるかどうかで、先見の明を持った経営者の殿堂に名を連ねられるかどうかが決まるのである。

次のような経営陣にはなかなかお目にかかれない。産業の未来を展望しなければならないことを十分に自覚している経営陣。今日の知的リーダーとならなければ、明日の市場の主導権をとる戦いに勝つことはまず無理だとわかっている経営陣。この点を問い詰められると管理職は即座に、今日、成功しているからといって明日も成功するわけではないことは認める。だが、彼らの行動を見ていると、未来は多かれ少なかれ過去の繰り返しであると暗に考えているようにとれる。

2014年7月12日土曜日

多角的な視点をもつ現代の生活水準論

一九二六(大正十五)年に内閣統計局が七千二百二十世帯の家計調査を実施し、今日の家計調査や消費実態調査にひきつがれているが、これらの調査は、国民の生活を豊かにするための政策に活かされることはなく、富国強兵政策の戦時中の米穀統制に利用されたり、消費者物価指数作成のための手段に使われたりしている。それにくらべれば、今日の国民生活白書は、年度によって重点のおきかたは異なるものの、政府の統計調査等をデータとして使いながら、家計の所得、消費、雇用、資産、住宅、学歴、老人問題、社会資本など、生活を全体的に包括した分析を行っている。

右のような視点とは別の角度から、人間らしい生活水準のミニマムとでもいうべきものを提出しだのが、労働科学研究所の『日本の生活水準』(一九六〇)であった。そこでは、生活費の金額によって貧富を判断しようとするのではなく、人間を基準として、体格、体力、健康状態、栄養状態、知能、住居、衣服、文化的生活などが、生活費が多くなるにつれて、どこまで向上するかを測定した。

そして、生活費をそれ以上多くしても生活水準はそれに伴って向上せず、そこからは平坦化してしまう、という点を捉えて、それをあるべき生活費と考えたのであった。その最初の試みは、一九五二年、厚生省が労働科学研究所に委託して作った『最低賃金あるいは社会保障の給付基準を決定する場合の基礎資料』で行われ、その後、物価の変動に伴って修正されている。

この研究は、人びとの心身が良好な状態にあり、その人の持つ能力を発揮できるような、人間らしい生活のためには、いくら生活費があればよいか、を算定しようとした画期的な試みであった。この研究を行った藤本武氏は、文化的レベルをこのような方法で算定することの難しさをのべているが、それにしても、人間の心身の良好な状態や活動を基準にして、あるべき生活費を考える、という方法は、コマーシャルにあやつられて購買意欲をかき立てられる無限の消費に対して、消費の量的限界効用を示したものとも解釈することができる。

さらに、生活水準を、消費支出の金額でみるのではなく、「人びとの欲望を満足させる程度」でみようとしたのが、国連社会開発研究所の「生活水準指標」であった。その方法は、まず福祉の対象となるものを選び、それがどの程度充足されているかを、教育、余暇、労働、健康、住生活、連帯などの項目別に分けて評価し、総合的に福祉水準を算定するものである。

2014年6月27日金曜日

作品の良否の判断

江藤さんは、私にも小説を書かせたが、何人もの新人を推挙した。その新人の方々には失礼だが、私は、女街のジュンに置屋のコマ女将、で行きましょう、などと冗談を言って、新人の発掘に努めたのだった。私も、作品の良否はわかる気でいたが、私は江藤さんのように、次々に新しい才能を見つけだすようなことはできなかった。だが推挙された才能の世話をすることはできたし、それをしなければならない立場であった。ゆえに、置屋のコマ女将、だが、私かそういう冗談を言ったり、江藤さんのフィーリングに噛み合わない呆けを言ったりすると、江藤さんは、コマチックだな、と言った。コマは、私の名の高麗である。

私のコマチックな言動に、不満に思い、腹が立ったこともあっただろうに、しかし、いい友人になっていた。けれども、江藤さんは「一族再会」のような作品は書いても、自分の家庭のことは話題にしない人であった。江藤さんは、市川の真間から市ヶ谷のマンションに居を変え、市ヶ谷から鎌倉に移った。江藤さんが遠隔の鎌倉に居を構えてからは、やはり従来よりは会う機会が減ったが、しかし、無沙汰になっているという感じはなかった。ただ、うちの女房が、という話をしない江藤さん。慶子夫人の病気についても、自分の病気についても、後になって、話すべき時期になってから話すのが、江藤さんのスタイルである。

あの「正論大賞」の贈呈式のあと、私は、江藤さんに会いたくて、なるべく文弱家協会の理事会に出席した。理事会に行けば、理事長の江藤さんに会えたのだった。閉会の後、赤坂プリンスホテルのバーで、江藤さんを囲んで四、五人で一杯やって別れる。何回かそういう顔の合わせ方をしたが、慶子夫人の不調にも、江藤さんの誰にも語らぬ悲しみにも気がつかなかった。慶子さんの病状が憂慮すべきものだという情報が私に伝わって来だのは、亡くなられる二月ぐらい前ではなかっただろうか。

慶子夫人が亡くなられたとき、江藤さんは、心はもちろん、体も損い、ボロボロになっていたのである。通夜でも、告別式でも江藤さんは、しやんとした姿勢、言動で喪主を勤めたが、あの体であれだけのことをするのは、大変なことだったのである。大変なことを、独りで乗り越えて、当たり前のように見せるのが江藤さんなのだろうか、その労苦をわかち受け持ちようもない。

2014年6月13日金曜日

日本の政治エリート

ラザースフェルドたちの開発した精密モデルの例をあげよう。日本の政治エリートに関する研究の一部である(詳細は拙著『日本の政治エリート』中公新書参照)。この表に示してあるのは一九二〇年(大正九年)における、三三一人の日本の政治的エリートのサンプルにおける、教育水準と政治的地位との関係である。

この表における政治的地位とは、勲一等、勲二等といった勲位、正三位というような宮中位、男爵、子爵といった爵位の三者を組み合わせた、政治的地位の尺度によって測ってある。この表が示すように両者の関係は教育水準が高ければ、政治的地位も高いという、きわめて常識的な結果が現われた。この両者の関係自体に関して特に問題はないように思われる。

しかし私はこの二変量解析をテストするのに、族籍を使用しなければならないと考えた。族籍とは戦争直後まで使用されていた華族、士族、平民の別である。旧武士階級であることを示す士族と平民との差は、戦前の日本ではことごとに人間の社会的地位に、影響を与えていたのである。それと同時に明治維新以前の公家、大名の子孫と、維新後の功労者に与えられた世襲的な爵位も重要である。これらの爵位を持つものは華族と呼ばれて、士族、平民とともに族籍の重要な一部を形成していた。この政治エリートの父親の族籍を統制変数として用いた、多変量解析の結果である。

この表のパーセンテージは、政治的地位の指数において、高い数値を獲得したエリートのパーセンテージであり、かっこ内の数字はパーセンテージの計算の基礎となった実数である。たとえば左上の数字でいえば、華族で大学以上の学歴のある者三一人のうち、政治的地位が高いと分類された者は九四パーセントということになる。そこで華族、士族、平民という三つのグループにおける、教育水準(独立変数)の政治的地位(パーセンテージで示された従屈変数)に対する影響を調べてみることにする。

するとまず華族クループでは、政治的地位の「高い」者が、大学以上では九四パーセント、大学未満では九二パーセントと、その差がニパーセントに過ぎない。つまり華族グループでは、教育水準と政治的地位との関係が、ほとんど消滅している。これは華族グループでは、政治的地位の獲得のために、高等教育が必要でなかったことを示している。

2014年5月23日金曜日

統一コストの重圧

通貨同盟が九〇年七月から先行実施に移されたが、コール政権やフラソクフルト金融界は東独径済の再建と統一ドイツの先行きについては、終始楽観論を展開していた。これはどの繁栄を誇っている西独の経済力と、それを背景にした最強通貨マルクをもってすれば、東独経済の復興などは失敗するはずがないといった、自信に満ち溢れたものであった。だが、初期の頃のこうした自信は過信でしかなかった。すぐこの後に続いたのは強い落胆と失望であった。

東独の経済改革は通貨同盟の実施にかかおりなく、早晩、避けては通れないものであった。そして、復興が軌道に乗るまでの数年間は、産業構造の抜本的調整や付随する失業増大は十分に予想のつくことであった。だが、通貨同盟を先行実施するとともに、通貨の交換レートを相当に大幅な割高水準で設定したため、東独経済に及ぼしたデフレ的インパクトはすさまじいものとなった。

東独経済は実体的に壊滅状態に転落するほかはなかった。割高な交換レートは東独企業の競争力を根底から削ぎ、対西独はおろか、旧共産圏貿易においても一気に競争力の喪失に見舞われた。そして、東独の製造業生産は、通貨同盟が始まってからわずか一年後の九一年夏には、六~七割に及ぶ未曾有の後退となった。また、中・長期的視野に立った経済復興を期待する上でのメルクマールとして海外からの直接投資、が注目された。だが、東独地域での不動産所有権をめぐる法的不確実性、工場立地における環境汚染問題と改良のためのコスト負担の巨額化、企業の・債務超過問題などから、外国による東独地域への直接投資は皆無のままであった。

失業者も激増した。九〇年六月の通貨同盟発足前は、失業者は皆無であった。だが、わずか一年後の九一年六月には実体的失業者は二○○万人から四○○万人にも達しかと推測される。人口が約ハ○○万人、このうち労働力人目が約半数の八〇〇万人とみれば、失業率は一気に五割にも達したことになる。また生産の著しい減少と生産性の悪化は、東西ドイツ開における賃金格差の是正が容易ではないことを露呈させた。この窮境下では人心は荒廃し、無気力化を招く。西独サイドへの人口流出が続いた。東独地域の経済的・社会 的基盤が、根底から崩壊したのである。

2014年5月3日土曜日

感傷過多症の泣き

帰国して、もしできるものなら、あの知人、あの友人と会いたいものだ、と戦前親しくしていたいくつかの顔を思い浮かべた。その一人、菊岡久利さんの所在を知ったときには、鉄砲玉のように飛んで行った。菊岡さんは、戦前、私がルンペンをやっていたとき、なにかと世話になった先輩であった。菊岡さんは、銀座で惣菜屋を作り、若い者の職場にしていた。若い者に食う場所を与えるために作った店だ、と私は思った。生活合作社という看板がかかっていた。中国から移入したネーミングであった。

その生活合作社に行って、菊岡さんの顔を見たら、顔を見ただけで、涙が出てとまらなかった。菊岡さんはそういう私に、なんの反応も示さず、何も言わなかった。あれも、安堵に自己憐欄の混じった、そして感傷過多症の泣き。だったのだろう。私は、父も母も、前記の妹も。肉親の死に目に会えないでしまった。だから、臨終の場で、あるいは遺体のそばで涙を流したということはない。

母が死んだのは戦前で、母が死んだときには私は訃報をきいて、東京から朝鮮新義州の生家まで帰ったが、着いたときには、母は御骨になっていた。妹と父は、私か兵士をやらされていたときに死んだので、やはり、遺骨と対面するしかなかった。戦後は、菊岡さんに会って泣いて以後の泣きの追憶は、岸田國士先生が亡くなった朝のことがあるだけだ。

文学座の、明日が初日の「どん底」の舞台稽古中、演出をしていた岸田先生は、劇場で倒れ、救急車で東大病院に運ばれた。私は劇場から病室まで先生に付き添って、その夜の明け方、東大病院から駒込の自宅まで、雪の中を歩いて帰り、二時間ほど仮眠をして再び先生の病室を訪ねたのであったが、私の着く前に先生は亡くなった。あのときの経緯や私の思いについては、「岸田國士と私」と題する著作に書いたか、菊岡さんとの再会の後泣いたのは、あのときだけである。あれは、妹の病室から京城駅までの泣きと同質の泣きであろう。

そのほかにも、おそらく泣いたことがあるはずだが、他の泣きは思い出せない。ただ、オイオイ泣き、ボロボロ泣きではなく、こっそり、メソメソしたことはある。数年前、妻が子宮癌で、摘出の手術をうけた。あのときは、病室から自宅にもどると、私はメソメソした気持でいた。それとも、半泣きであったと言うべきか。幸い、妻は回復し、再び琴彦相和すところのない付合いを続けているが、私は自分が泣いたことについては、この半泣きも含めて、七十年間に七つしか思い出せない。まったく人というものは、他人の痛みは、何年でも我慢できるが、自分のこととなると、すぐメソメソするものだ。

2014年4月17日木曜日

海外生産の有利性

投人財の国内生産を誘発したのは需要圧力ばかりではない。最終財輸出によって入手した外貨が重化学工業部門にふり向けられ、これが後者の重要な開発資源となったという経緯もまた、指摘されねばならない。そうした経緯は、郷鎮企業の労働集約的製品の輸出にはじまり、そのインパクトを内陸部重工業部門におよぼしていこうという、王建の想定する段階論的戦略に見合うものであり、その有効性はNIESの経験によって実証されている。

趙紫陽=王建のアプローチが有効とみなされる理由のさらにもうひとつは、この戦略の出発点にある沿海地域における郷鎮企業の輸出志向工業化戦略、わけても外国資本の導入をあおぎながらの輸出戦略は、中国をとりまく東アジアの国ぐにに現在激しく進行している構造調整と、それにともなってこの地域に新しく生まれつつある貿易・投資環境によく適合している、というところに求められる。

東アジアに生起している新しい状況とはなにか。このことの詳細は次章で論じる。しかし、さしあたりつぎのことを述べておきたい。一九八〇年代に入って開始された円高、とくに一九八五年「プラザ合意」以降の超円高のもとで、日本は束アジアからかつてない規模での製品輸入をつづけている。円高を通じて輸入価格が低下したがゆえぽかりではない。

円高によって海外生産の有利性が強まり、技術力の強い束アジア開発途上国に生産拠点をシフトし、そこからの「アウトソーシング」(海外調達)を試みる企業が大きく増加したのである。かくして日本は低位技術部門を近隣の開発途上諸国に委譲し、みずからは高度技術部門に特化するという、東アジアをベースとした産業内分業を活発に展開した。日本は、中国が東アジア市場に参入しようとするまさにこの時点において、東アジアにおける巨大な「需要吸収者」となり、のみならず巨大な投資者としてもたちあらわれたのである。