2014年6月27日金曜日

作品の良否の判断

江藤さんは、私にも小説を書かせたが、何人もの新人を推挙した。その新人の方々には失礼だが、私は、女街のジュンに置屋のコマ女将、で行きましょう、などと冗談を言って、新人の発掘に努めたのだった。私も、作品の良否はわかる気でいたが、私は江藤さんのように、次々に新しい才能を見つけだすようなことはできなかった。だが推挙された才能の世話をすることはできたし、それをしなければならない立場であった。ゆえに、置屋のコマ女将、だが、私かそういう冗談を言ったり、江藤さんのフィーリングに噛み合わない呆けを言ったりすると、江藤さんは、コマチックだな、と言った。コマは、私の名の高麗である。

私のコマチックな言動に、不満に思い、腹が立ったこともあっただろうに、しかし、いい友人になっていた。けれども、江藤さんは「一族再会」のような作品は書いても、自分の家庭のことは話題にしない人であった。江藤さんは、市川の真間から市ヶ谷のマンションに居を変え、市ヶ谷から鎌倉に移った。江藤さんが遠隔の鎌倉に居を構えてからは、やはり従来よりは会う機会が減ったが、しかし、無沙汰になっているという感じはなかった。ただ、うちの女房が、という話をしない江藤さん。慶子夫人の病気についても、自分の病気についても、後になって、話すべき時期になってから話すのが、江藤さんのスタイルである。

あの「正論大賞」の贈呈式のあと、私は、江藤さんに会いたくて、なるべく文弱家協会の理事会に出席した。理事会に行けば、理事長の江藤さんに会えたのだった。閉会の後、赤坂プリンスホテルのバーで、江藤さんを囲んで四、五人で一杯やって別れる。何回かそういう顔の合わせ方をしたが、慶子夫人の不調にも、江藤さんの誰にも語らぬ悲しみにも気がつかなかった。慶子さんの病状が憂慮すべきものだという情報が私に伝わって来だのは、亡くなられる二月ぐらい前ではなかっただろうか。

慶子夫人が亡くなられたとき、江藤さんは、心はもちろん、体も損い、ボロボロになっていたのである。通夜でも、告別式でも江藤さんは、しやんとした姿勢、言動で喪主を勤めたが、あの体であれだけのことをするのは、大変なことだったのである。大変なことを、独りで乗り越えて、当たり前のように見せるのが江藤さんなのだろうか、その労苦をわかち受け持ちようもない。