2014年5月3日土曜日

感傷過多症の泣き

帰国して、もしできるものなら、あの知人、あの友人と会いたいものだ、と戦前親しくしていたいくつかの顔を思い浮かべた。その一人、菊岡久利さんの所在を知ったときには、鉄砲玉のように飛んで行った。菊岡さんは、戦前、私がルンペンをやっていたとき、なにかと世話になった先輩であった。菊岡さんは、銀座で惣菜屋を作り、若い者の職場にしていた。若い者に食う場所を与えるために作った店だ、と私は思った。生活合作社という看板がかかっていた。中国から移入したネーミングであった。

その生活合作社に行って、菊岡さんの顔を見たら、顔を見ただけで、涙が出てとまらなかった。菊岡さんはそういう私に、なんの反応も示さず、何も言わなかった。あれも、安堵に自己憐欄の混じった、そして感傷過多症の泣き。だったのだろう。私は、父も母も、前記の妹も。肉親の死に目に会えないでしまった。だから、臨終の場で、あるいは遺体のそばで涙を流したということはない。

母が死んだのは戦前で、母が死んだときには私は訃報をきいて、東京から朝鮮新義州の生家まで帰ったが、着いたときには、母は御骨になっていた。妹と父は、私か兵士をやらされていたときに死んだので、やはり、遺骨と対面するしかなかった。戦後は、菊岡さんに会って泣いて以後の泣きの追憶は、岸田國士先生が亡くなった朝のことがあるだけだ。

文学座の、明日が初日の「どん底」の舞台稽古中、演出をしていた岸田先生は、劇場で倒れ、救急車で東大病院に運ばれた。私は劇場から病室まで先生に付き添って、その夜の明け方、東大病院から駒込の自宅まで、雪の中を歩いて帰り、二時間ほど仮眠をして再び先生の病室を訪ねたのであったが、私の着く前に先生は亡くなった。あのときの経緯や私の思いについては、「岸田國士と私」と題する著作に書いたか、菊岡さんとの再会の後泣いたのは、あのときだけである。あれは、妹の病室から京城駅までの泣きと同質の泣きであろう。

そのほかにも、おそらく泣いたことがあるはずだが、他の泣きは思い出せない。ただ、オイオイ泣き、ボロボロ泣きではなく、こっそり、メソメソしたことはある。数年前、妻が子宮癌で、摘出の手術をうけた。あのときは、病室から自宅にもどると、私はメソメソした気持でいた。それとも、半泣きであったと言うべきか。幸い、妻は回復し、再び琴彦相和すところのない付合いを続けているが、私は自分が泣いたことについては、この半泣きも含めて、七十年間に七つしか思い出せない。まったく人というものは、他人の痛みは、何年でも我慢できるが、自分のこととなると、すぐメソメソするものだ。

2014年4月17日木曜日

海外生産の有利性

投人財の国内生産を誘発したのは需要圧力ばかりではない。最終財輸出によって入手した外貨が重化学工業部門にふり向けられ、これが後者の重要な開発資源となったという経緯もまた、指摘されねばならない。そうした経緯は、郷鎮企業の労働集約的製品の輸出にはじまり、そのインパクトを内陸部重工業部門におよぼしていこうという、王建の想定する段階論的戦略に見合うものであり、その有効性はNIESの経験によって実証されている。

趙紫陽=王建のアプローチが有効とみなされる理由のさらにもうひとつは、この戦略の出発点にある沿海地域における郷鎮企業の輸出志向工業化戦略、わけても外国資本の導入をあおぎながらの輸出戦略は、中国をとりまく東アジアの国ぐにに現在激しく進行している構造調整と、それにともなってこの地域に新しく生まれつつある貿易・投資環境によく適合している、というところに求められる。

東アジアに生起している新しい状況とはなにか。このことの詳細は次章で論じる。しかし、さしあたりつぎのことを述べておきたい。一九八〇年代に入って開始された円高、とくに一九八五年「プラザ合意」以降の超円高のもとで、日本は束アジアからかつてない規模での製品輸入をつづけている。円高を通じて輸入価格が低下したがゆえぽかりではない。

円高によって海外生産の有利性が強まり、技術力の強い束アジア開発途上国に生産拠点をシフトし、そこからの「アウトソーシング」(海外調達)を試みる企業が大きく増加したのである。かくして日本は低位技術部門を近隣の開発途上諸国に委譲し、みずからは高度技術部門に特化するという、東アジアをベースとした産業内分業を活発に展開した。日本は、中国が東アジア市場に参入しようとするまさにこの時点において、東アジアにおける巨大な「需要吸収者」となり、のみならず巨大な投資者としてもたちあらわれたのである。