2016年2月18日木曜日

連立の可能性を探る

与党内の亀裂は、その後一層はっきりとする。小沢らは後継首相に、当初自民党の渡辺美智雄前外務大臣を擁立し、自民党の分裂を誘い、社会、さきがけと、自民党渡辺グループを交替させるという連立与党の組み替えを考えた。消費税率引き上げなど政策面でも、社会党、さきがけとの考え方の開きが次第に明らかになりつつあったからである。

しかし、渡辺は自民党離党の決断を下せなかった。他方、連立の組み替えが現実のものになれば、社会党や民社党の分裂をももたらすおそれもある、と心配した連合の山岸章会長らは、両党の連立与党残留を強く主張した。こうして、新生党と距離を置きつつあった社会党は、自民党と水面下で連立の可能性を探る一方、一度は非自民の連立にもどる。

細川の辞任表明から二週間後の四月二二日。漸く与党の統一後継首相候補として新生党の党首羽田孜が決まるまでには、以上のような経緯があった。しかし、羽田の背後にいた小沢は、羽田を立てることに必ずしも賛成ではなかった。小沢は九四年度予算が可決されれば、不信任案が提出され羽田は短命政権に終わると考えたという(小沢一郎「語る」)。

ともあれ、羽田内閣は形を整えてスタートするかに思われた。ところが、その後、事態は予想外の方向に進む。羽田首相指名後、組閣前の段階で、新生党、日本新党、民社党などが社会党への事前の相談なしに国会内の統一会派、「改新」を結成したことに対し社会党が激しく反発、村山社会党委員長は「信義にもとる」(村山富市「そうじゃのう」)として、連立離脱を決めたのである。

当時の議席数からすれば、統一会派にするよりは、各党単独のままのほうが社会党にとって有利であった。統一会派になれば、社会党は封じ込められてしまう。露骨な社会党外してあり、許すことはできなかった。この結果、羽田内閣は一転、衆議院で二〇〇名を大きく下まわる少数連立内閣として出発せざるを得なくなった。「改新」結成の過程がどのようなものであろうとも、はっきりしているのは、村山ら社会党の小沢、細川らに対する不信感が増幅したことであった。