2015年12月18日金曜日

聖徳太子の「和」と「権力闘争ぼかし」

日本文明において、「古事記」の仁徳天皇の逸話と並んで「権力闘争ぼかし」の心理的装置として大きく機能した徳目が聖徳太子の「和」である。聖徳太子というと「聖徳」という字義から宗教的指導者というイメージのほうが強いし、むろん優れた宗教的指導者であったわけだが、同時に彼が推古天皇の皇太子であり、「摂政」という国政を担当する重要な地位にあった権力者であったことも忘れるべきではない。

その権力者が「和」という徳目を十七条憲法で打ち出して以後、「和」が日本文明の基本原理として広く受け入れられ、その影響は今日にも及ぶことはイデオロギーの違いを超えて誰もが認めるところであろう。

だが、「一に曰く、和を以つて貴しとなし、件ふること無きを宗とせよ」にはしまる十七条憲法の第一条は、そのまま「権力闘争ぼかし」の勧めである。聖徳太子が「和」を第一としたのはそれまでの天皇家の歴史を考えれば当然のことで、天皇家自身が近親者同士で血で血を洗う殺し合いや、蘇我氏をはじめとする有力豪族との争いと妥協に明け暮れていたからである。

聖徳太子の時代の蘇我氏は、大臣だった蘇我馬子が大連の物部氏を滅ぼし、さらに崇峻天皇を暗殺して権勢を振るっていた。聖徳太子の父親であった橘豊日皇子(後の用明天皇)と母の穴穂部間人皇后は蘇我氏の親族であり、それゆえ用明天皇も次の崇峻天皇も馬子が擁立した蘇我系天皇であった。しかし、崇峻天皇と意見が対立しはしめると、馬子は崇峻天皇を暗殺したのである。

その一方で蘇我馬子は、自分の娘を聖徳太子の妃にしたり、仏教の受容で聖徳太子と協力し合うなど、天皇家と蘇我氏との関係は複雑微妙なものがあった。それゆえ、聖徳太子の「和」は単なる机上の理念ではなく、当時の政治情勢を鋭く反映した、複雑に利害の絡み合った権力闘争の現実のなかから生まれてきた実践的な理念だったのである。

だから私は、聖徳太子の「和」を「妥協を終着点とし、妥協を美学にまで高めた理念」と定義したい。連合戦争神が支配する西欧の要塞文明では、「妥協」はあくまでも一方が他方を打倒する「権力闘争」のプロセスの一つに過ぎないのだが、八百万の神々の世界では「妥協」こそが終着点なのである。「妥協」のためには「権力闘争ぼかし」が不可欠なのである。

実際このことは、六〇四年の十七条憲法の制定に前後して、蘇我馬子が五九六年に日本最古の仏教寺院である「法興寺」(飛鳥寺)を建立し、聖徳太子が六〇七年に「法隆寺」を建立したことに象徴されている。馬子は五八八年に「法興寺」の建設に着手し、五九四年には各地の豪族も「仏教興隆」の詔の下で寺院建設を開始するのだが、太子はこの「仏教興隆」の文字を馬子に配慮してしっかり分け合っているのである。「法興」に対する「法隆」がそれである。ここに太子の「和」の精神が透けて見えるのである。

聖徳太子はこうして蘇我氏との二頭政治を巧みに乗り切ったのであるが、その政治的成功が次に述べる仏教思想と日本の村落共同体のあり方と巧みに親和していたこともあって、「和」は日本文明の基本原理として、同時に「権力闘争ぼかし」のもっとも重要な心理的装置として長く機能するのである。聖徳太子は優れた宗教的指導者であったと同時に天才的な「策士」でもあった、というのが考えである。