2015年11月19日木曜日

防御とダメージ・コントロールの発想

零戦のように、機体を少しでも軽くするためにパイロットを敵の銃弾から防御する鉄板さえ入れないとか、被弾したさい発火しないよう工夫するとかの防御とダメージ・コントロールを一切排除して、ただひたすら航続距離や旋回性能などの攻撃力を追求した傑作が零戦だったのである。むろんこれは一式陸攻も同じで、一式陸攻はその発火しやすさから「一式ライター」と呼ばれていたほどである。日本の戦車は西欧のそれとは比較にならないほど貧弱であったし、戦艦大和や武蔵は対空防御に弱点を抱えていた。日本の空母群もアメリカのそれと比べて、攻撃力は優れていたが防御力やダメージ・コントロールカが弱く、ひとたび守勢に回るとあっけなく海の藻屑と化したのである。

また、防御とダメージ・コントロールの発想が薄いからこそ、兵士に「おまえたちは一銭五厘の消耗品」だとか「兵の命は鴻毛よりも軽い」といった命を徹底的に軽視するマインド・コントロールが不可欠だったのである。防御の弱さは兵士の血で償うしかないからである。むろん、こんなマインド・コントロールが可能だったのも、日本文明が無常感からなる文明であればこそである。もっとも、敗戦により「作用・反作用の法則」が働いて、今度は「人の命は地球より重い」ということになってしまった。むろんこれはごまかしで、本当は「日本人の命は地球より重い」という意味である。人の命が「鴻毛より軽い」も「地球より重い」も、いずれも西欧には見られない日本のオリジナルである。日本文明は至るところに「独創性」が隠れているのである。

それはともかく、島崎藤村の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗北後は無駄死にすることなく捕虜となって、その貴重な交戦体験を後世に残し、それを学習材料によりすぐれた戦術や戦略を練りあげる機会を日本軍から奪ってしまった。戦後日本の戦争体験者の多くが、元兵士であっても体験内容が「交戦体験」ではなく「逃げ回った体験」であるのは、交戦した兵士の多くは敗北が決定的となった時点で万歳突撃を敢行し「はかなく」も「華と散った」ので、その時点で貴重な「交戦体験」が消失したからである。