2015年12月18日金曜日

聖徳太子の「和」と「権力闘争ぼかし」

日本文明において、「古事記」の仁徳天皇の逸話と並んで「権力闘争ぼかし」の心理的装置として大きく機能した徳目が聖徳太子の「和」である。聖徳太子というと「聖徳」という字義から宗教的指導者というイメージのほうが強いし、むろん優れた宗教的指導者であったわけだが、同時に彼が推古天皇の皇太子であり、「摂政」という国政を担当する重要な地位にあった権力者であったことも忘れるべきではない。

その権力者が「和」という徳目を十七条憲法で打ち出して以後、「和」が日本文明の基本原理として広く受け入れられ、その影響は今日にも及ぶことはイデオロギーの違いを超えて誰もが認めるところであろう。

だが、「一に曰く、和を以つて貴しとなし、件ふること無きを宗とせよ」にはしまる十七条憲法の第一条は、そのまま「権力闘争ぼかし」の勧めである。聖徳太子が「和」を第一としたのはそれまでの天皇家の歴史を考えれば当然のことで、天皇家自身が近親者同士で血で血を洗う殺し合いや、蘇我氏をはじめとする有力豪族との争いと妥協に明け暮れていたからである。

聖徳太子の時代の蘇我氏は、大臣だった蘇我馬子が大連の物部氏を滅ぼし、さらに崇峻天皇を暗殺して権勢を振るっていた。聖徳太子の父親であった橘豊日皇子(後の用明天皇)と母の穴穂部間人皇后は蘇我氏の親族であり、それゆえ用明天皇も次の崇峻天皇も馬子が擁立した蘇我系天皇であった。しかし、崇峻天皇と意見が対立しはしめると、馬子は崇峻天皇を暗殺したのである。

その一方で蘇我馬子は、自分の娘を聖徳太子の妃にしたり、仏教の受容で聖徳太子と協力し合うなど、天皇家と蘇我氏との関係は複雑微妙なものがあった。それゆえ、聖徳太子の「和」は単なる机上の理念ではなく、当時の政治情勢を鋭く反映した、複雑に利害の絡み合った権力闘争の現実のなかから生まれてきた実践的な理念だったのである。

だから私は、聖徳太子の「和」を「妥協を終着点とし、妥協を美学にまで高めた理念」と定義したい。連合戦争神が支配する西欧の要塞文明では、「妥協」はあくまでも一方が他方を打倒する「権力闘争」のプロセスの一つに過ぎないのだが、八百万の神々の世界では「妥協」こそが終着点なのである。「妥協」のためには「権力闘争ぼかし」が不可欠なのである。

実際このことは、六〇四年の十七条憲法の制定に前後して、蘇我馬子が五九六年に日本最古の仏教寺院である「法興寺」(飛鳥寺)を建立し、聖徳太子が六〇七年に「法隆寺」を建立したことに象徴されている。馬子は五八八年に「法興寺」の建設に着手し、五九四年には各地の豪族も「仏教興隆」の詔の下で寺院建設を開始するのだが、太子はこの「仏教興隆」の文字を馬子に配慮してしっかり分け合っているのである。「法興」に対する「法隆」がそれである。ここに太子の「和」の精神が透けて見えるのである。

聖徳太子はこうして蘇我氏との二頭政治を巧みに乗り切ったのであるが、その政治的成功が次に述べる仏教思想と日本の村落共同体のあり方と巧みに親和していたこともあって、「和」は日本文明の基本原理として、同時に「権力闘争ぼかし」のもっとも重要な心理的装置として長く機能するのである。聖徳太子は優れた宗教的指導者であったと同時に天才的な「策士」でもあった、というのが考えである。

2015年11月19日木曜日

防御とダメージ・コントロールの発想

零戦のように、機体を少しでも軽くするためにパイロットを敵の銃弾から防御する鉄板さえ入れないとか、被弾したさい発火しないよう工夫するとかの防御とダメージ・コントロールを一切排除して、ただひたすら航続距離や旋回性能などの攻撃力を追求した傑作が零戦だったのである。むろんこれは一式陸攻も同じで、一式陸攻はその発火しやすさから「一式ライター」と呼ばれていたほどである。日本の戦車は西欧のそれとは比較にならないほど貧弱であったし、戦艦大和や武蔵は対空防御に弱点を抱えていた。日本の空母群もアメリカのそれと比べて、攻撃力は優れていたが防御力やダメージ・コントロールカが弱く、ひとたび守勢に回るとあっけなく海の藻屑と化したのである。

また、防御とダメージ・コントロールの発想が薄いからこそ、兵士に「おまえたちは一銭五厘の消耗品」だとか「兵の命は鴻毛よりも軽い」といった命を徹底的に軽視するマインド・コントロールが不可欠だったのである。防御の弱さは兵士の血で償うしかないからである。むろん、こんなマインド・コントロールが可能だったのも、日本文明が無常感からなる文明であればこそである。もっとも、敗戦により「作用・反作用の法則」が働いて、今度は「人の命は地球より重い」ということになってしまった。むろんこれはごまかしで、本当は「日本人の命は地球より重い」という意味である。人の命が「鴻毛より軽い」も「地球より重い」も、いずれも西欧には見られない日本のオリジナルである。日本文明は至るところに「独創性」が隠れているのである。

それはともかく、島崎藤村の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗北後は無駄死にすることなく捕虜となって、その貴重な交戦体験を後世に残し、それを学習材料によりすぐれた戦術や戦略を練りあげる機会を日本軍から奪ってしまった。戦後日本の戦争体験者の多くが、元兵士であっても体験内容が「交戦体験」ではなく「逃げ回った体験」であるのは、交戦した兵士の多くは敗北が決定的となった時点で万歳突撃を敢行し「はかなく」も「華と散った」ので、その時点で貴重な「交戦体験」が消失したからである。

2015年10月19日月曜日

介護費用の急増と介護保険構想

所得保障としての年金保険、医療保険のいずれをみても。その条件は脆弱である。そのうえに、介護を必要とする高齢者の増加も避けられそうにない。厚生省の推計では、寝たきり・痴呆・虚弱症状にあって介護を必要とする高齢者は、九三年に二〇〇万人であったが、これが二〇〇〇年に二八〇万人、二〇一〇年に三九〇万人、二〇二五年に五二〇万人に増加するとされている。

一九九三年度において、老人医療費のうち介護の色彩の濃い部分が、約八〇〇〇億円ある。これとは別に、老人福祉サービスとして施設サービスと在宅サービスに一兆五〇〇〇億円、家族による介護をヘルパーの単価をもとに換算すると二〇〇〇億円。高齢者の介護に、総計二兆五〇〇〇億円の費用がかかっている。これが二〇〇〇年には、老人医療のうち介護の色彩の強い部分が二兆一〇〇〇億円、老人福祉サービスの公的負担部分が二兆二〇〇〇億円、家族による介護費用をヘルパー単価に置き換えたとして三兆四〇〇〇億円となり、総計七兆七〇〇〇億円の費用を要すると推計されている。

特別養護老人ホームの整備やホームヘルパーの増員をはかる「新ゴールドープラン」(新・高齢者保健福祉推進一〇ヵ年戦略)が計画通りに進行しても、二〇〇〇年には、ちょうど家族による介護費用部分が不足する。だが、計算上はそうであっても、すでにみたように老人保健医療を国保で支えられるのか。また既存の債務を累積させている予算構造を前提にした時、「新ゴールドープラン」に必要な財源を投下できるだろうか。そして、財源不足部分を家庭内介護にゆだねてょいのだろうか。

このような状況下で、急速に費用負担制度として浮上しているのが、公的介護保険制度である。基本的な考え方は、特別養護老人ホームの介護費用やホームヘルパーの費用、老人病院の介護的色彩の濃い部分の費用などを、若年層から高齢者までを被保険者とする介護保険を創設して、そこから支払おうとするものである。九四年コー月より厚生省の研究会や老人保健福祉審議会、さらに社会保障制度審議会などの報告があいついでいるが、九七年度からの導入をいうわりには、構想のひとり歩きが目立っており、制度の内容が詰められていない。

だいたいが、介護保険の給付対象をどのようなサービスとするのか。医療保険の場合には、治療の必要性と治療内容は医師によって認定されている。だが介護保険では、どのような機関が受給者と保険給付サービスの内容を認定するのか。介護保険料を何歳からいくら支払うのか。それは介護保険でカバーされるサービスと密接に関係するが、具体的額が示されているわけではない。

2015年9月18日金曜日

経常収支黒字要因

このように、買物のための赤字と投資のための赤字とでは同じ赤字といっても意味が変わってくる。同じ国際収支の赤字といっても、経常収支赤字は対外債務の超過をもたらし、資本収支赤字の場合は一方的な対外債務増大には結びつかず、むしろ投資収益増大をつうじて経常収支黒字要因となる。だから同じ赤字でも深刻なのは経常収支赤字である。経常収支赤字は、資本収支赤字とちがって、国内の購買力が一方的に海外に流れ出していることを意味するからである。

もちろん経常収支赤字といっても、アメリカのように自国通貨ドルで対外的な借金を支払える限りでは、他の国々とちがっていきなり債務返済に困るわけではない。しかし、経常収支赤字は国民所得の一部分が海外に一方的に流出していることを意味しているという事実を変えることはできない。国内の購買力が一方的に外国に流出するということは、国内産業に回るべき「おカネ」が外国に回り、国内の有効需要がその分削減されるということである。つまりこれは国内の失業問題に直結する。だから、経常収支赤字が続くことになると、ドル問題は別としても、アメリカはその対策をとらざるをえなくなる。

実際、アメリカは資本収支の赤字を主因とする国際収支赤字である問は、ドル危機対策に追われはしたが、まだ「余裕」があった。ところが七一年に今世紀に入ってはじめて貿易収支が赤字に転落し、経常収支も赤字に転落するに及んで、余裕は消えてしまった。七一年八月のニクソンーショツク(金ドル交換停止)によって戦後の固定相場制の崩壊が始まり、一ドル三六〇円時代は終わりを告げた。

だがそれでもなお、七〇年代は七一年や七八年などを除けば、貿易収支の赤字を膨大な投資収益でカバーすることによって、経常収支は、基調としてはなんとか黒字を維持することができた。ところが、八三年以降ぱ貿易赤字が急拡大し、しかもこれをカバーすべき投資収益黒字が急減することによって、経常収支赤字が完全に定着してしまった。アメリカの債務国転落はその結果であった。

2015年8月25日火曜日

年金水準の切り下げ

また働く既婚女性が増えたことにより、夫婦共働きの世帯と、夫一人が働く世帯との間に、世帯間の年金格差が生ずると、以前から指摘されていた。厚生年金は、夫婦二人分の年金として設計されており「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という思想が制度の基本にあった。したがって妻も外で働き、厚生年金に加入すれば、妻の年金も二人分、共働き家庭は夫婦あわせて四人分の年金を受けるといわれた。しかし実際には、妻の就労は途中からの再就職やパート労働が多く、あるいは長く働いても賃金が低いため、男性と同じ水準の年金を受ける人は多くはない。

旧制度で、夫が厚生年金、妻が国民年金に任意加入している場合も、世帯の年金としては三人前とされた。こうした世帯間格差をなくすために、年金の仕組みを個人単位とする改正が行なわれた。それは年金給付費の節約にもつながるものであった。女性の年金についても、夫がサラリーマンの専業主婦は国民年金に任意加入の扱いで、独自の年金受給が保障されていないことが、国民年金発足の当初から問題とされてきた。任意加入しなければ、障害者となっても障害年金が受けられず、高齢で離婚した場合、無年金となるおそれが指摘されてきた。このような問題に、改正はどう対応したかを、次に見てゆくことにする。

厚生年金の一九八六年のモデル年金は、平均標準報酬月額二五万四〇〇〇円の場合、三二年加入で一七万三一〇〇円である。改正では同じ平均標準報酬月額の四〇年加入者の年金を、一七万六二〇〇円とほぼ同額とした。つまり一九八六年から二〇年後にでてくる四〇年加入者も、改正前の三二年加入とほぼ同じ年金水準になる。

この切り下げの方法として、老齢基礎年金の1ヵ月当たりの単価を一五年かけて二〇〇〇円からこ一五〇円に下げた。生年月日により、一歳ごとに単価が下がる仕組みで、一九四一年四月二日以後の生まれの人は、単価はすべて二一五〇円である。厚生年金の報酬比例部分の「支給乗率」も、一〇〇〇分の一〇から、一〇〇〇分の七・五へ、二〇年かけて切り下げる。これも生年月日の一年刻みで下がる仕組みである。同様に厚生年金の定額単価も、二四〇〇円から二五〇円へと下がる。

年金の改正に当たって四月一日以前に生まれた人(改正施行日に六〇歳以上)は、旧制度適用とし、その他に、さきに述べた切り下げの経過措置が適用される世代と、まったくの新制度適用の世代、つまり三つのグループが生ずることになった。経過措置に該当する人々は、厚生年金では一九二六年四月二日から一九四六年四月一日生まれまでで、この年代では前述の定額単価、支給乗率は一歳ごとに下がり、年齢の若い人ほど定額単価も支給乗率も低くなる。

2015年7月20日月曜日

成田と羽田のすみ分け

日航の再建はスタートに戻った。本当に政府が難しい再建をやりきれるのか、それとも過剰な負担を国民に押し付ける結果になるのか注目していかなければならない。そして問題を日本航空という一企業の経営問題だけでなく、より大きな日本の航空のあり方に広げて見る必要がある。羽田空港の国際化が大きな注目を集め、いろいろな議論が起こっている。安倍政権のもとで行われたアジアーゲートウェイ戦略会議では、今行われているような論議はすべて提起した。その座長であった者としては、数年遅れでこうした議論の盛り上がりが起きてきたことには、少し複雑な心境である。ただ、こうした議論が盛り上がって日本の空が少しでもよくなることは喜ばしいことだ。

成田と羽田のすみ分けにはいろいろな論点があるが、今回は国際空港の24時間利用という点について論じてみたい。成田空港は夜間から早朝にかけての発着ができない。そのため、夜10時ごろに最終便が出てから次の便が出るのは朝の8時以降になってしまう。これは国際空港としては致命的な弱点である。ちなみに、シンガポールやドバイの空港では、この夜間から早朝にかけて100機以上の航空機が飛び立つようだ。ハブの機能を発揮するためには、夜間から早朝の発着も重要な意味を持っているのだ。羽田空港の一つの強みは、夜間から早朝の発着が可能であるということだ。海外出張が多いビジネスマンなら、この時間帯の発着を利用した新たなサービスがいくつか思い浮かぶはずだ。私が思いついた二つの例をあげてみよう。

成田空港を夜10時ごろに出て、パリに朝4時過ぎに着く航空便がある。昼間日本で仕事を終わらせ、現地で朝から仕事をする必要のあるビジネスマンにとっては便利な便である。現地でフルに観光したいツアー客にとっても、朝から現地で活動できるというのは魅力的であるようだ。ただ、朝4時に着くというのはいかにも早すぎる。空港で夜明けを待つことになる。もし羽田空港を夜の12時に出る欧州線を組めれば、欧州の主要都市に朝6時ごろに着くことができる。このような欧州便なら、地方の方も夕方まで地元にいて、最終便で羽田空港に来て、余裕を持って欧州に飛ぶことができる。成田空港を利用するよりはずっと時間を短縮できることになる。

もう一つの例としてアジア大洋州便がある。朝の7時前後の成田空港は東南アジアやオーストラリアからの便の到着ラッシュである。タイやマレーシアの空港では、朝7時ごろ成田に到着するため、夜の19時近くまで空港で待機させられる。6時よりも前に成田に到着できないからだ。しかも朝の成田空港に到着する便のラッシュの中で少しでもあとのほうに回されると、空港を出るころには8時を回っている。この時間では都心に向かう通勤ラッシュに巻き込まれてしまう。

もし羽田空港に朝の5時から6時台に到着するような便を組めれば、現地を夜9時から10時という時間に出ることができる。空港で時間を潰さなくてもよい。また、朝のこの時間に到着すれば、都心へのラッシュを避けることができる。地方の方は、羽田発の始発に乗ることができるので、午前中には地元に帰ることかできる。羽田を利用した夜間早朝の発着の可能性に大いに期待したい。

2015年6月18日木曜日

死についての医学的考察

哲学者や宗教学者などの専門家は別として、一般の人は、常識として何となくわかっているようでも今までつきつめて考えてはみなかった「人の死とは何か、生とは何か」という命題を新しい先端医療との関連で考えてみなければならない事態に直面して困惑ぎみなところもあろうかと思われる。そこでまず、現在の医学・医療の科学的レベルにおいて考えられる人間の死の現象について解説しておきたい。それゆえ、ここでは哲学的、宗教的、法的、社会的な死などについては言及しない。

医師側から死についての医学的定義を提示して、それをそのまま一般社会に人間の死として容認してもらおうと押し付けることが許されないことは自明なことである。一方、一般社会から医師側に、医学の素人が頭の中で考えただけの医学的根拠のない死の定義や臨床的に判定不可能な死を定義して押し付けられても、医師は患者の死を判定することができず、医師としての責務を果たせないのも自明なことである。

さて、死とは、意識がなく呼吸が止まり心臓も止まって身体が冷たく目がうつろで全身が動かなくなること、と一般には考えられてきた。もう少し詳しくいえば、呼んでも揺り動かしても全く反応がなく、自発呼吸もなく、心臓の拍動も触れず脈もなく、瞳孔はまったく大きさを変えずヽ顔の色が悪く生気がなく、体温は下がって冷たくなり、身体のどの部分にも自発運動がない状態が「死んでいる状態」というのが従来の一般的な常識であった。

医学的にいえば、さらに目の反射運動の消失(まぶしい光をあてた時に瞳孔が収縮する対光反射の消失、および角膜表面に毛の先などが触れると目を閉じる角膜反射の消失)を確認することが大切であり、これと心臓停止と自発呼吸停止の三徴候をもって人間の死と臨床的に判定してきた。この判定には、心電図検査、脳波検査や病理組織学的検査などの、死んでいることを裏づける医学的検査をすることはまったく条佳づけられてはおらず、また人の死の決定についての法的要件としては「医師が判定する」ことだけが定められているに過ぎないことに注意していただきたい。

脳死をもって人の死と認めるかどうかの議論の際に「死の判定を医師に任せておくことはできない」という誤解されやすい意見が巷で通用しているが、「死の判定」を医師以外の人がしたら、それこそ医師法違反で犯罪となることを忘れてはならない。

2015年5月23日土曜日

戦線縮小と提携

軽快でアクロバティックな走りをみせたジェミニのCMでおなじみの「いすゞ」は、九二年末に乗用車部門からの撤退を発表した。もともと日本で最大のディーゼルエンジンーメーカーであり、トラックを得意としてきたいすゞは、不採算部門を切り捨てて、得意分野に特化することによって、経営再建に乗り出したのである。

そして、いすゞはアメリカ市場でホンダに小型トラックを提供し、ホンダはいすゞにドマーニの一種をジェミニとして提供するというような提携、乗用車、RV(レクリェーショナぐビークル)での相互OEM(相手先ブランドによる生産)が開始された。

こうした戦線縮小は、軽自動車から高級車までフルラインでそろえ、多品種戦略を進めてきた各社の内部でも車種の削減として進んでいる。「この車種削減に先陣をきったのは業界トップであるトヨタで、最初に手をつけた仕事が、それまで四〇種もあったコロナのバリエーションを約二割削減して三一種にすることだった」(下川浩一『自動車業界からの警告』)づまた車種ごとのモデルーチェンジをのばす動きも始まっている。

さらに一車種あたりの部品の削減、他の車種との部品の共通化も進んでいる。いすゞでは、これまで八〇万点あったトラック全体の部品を急遠ニ万点に削減する計画を立てて実行中であるが、じつは、このニ万点の部品があれば、現在でもいすゞのトラックのうち九八%までは製造できるという。

日産でも全部品の三割が削減できるという(同上吝。ポンプが九三年一〇月に発売した新アコードでは「旧モデルや他の既存車種との共通部品比率ぱ約六割に達した。九二年秋発売の『ドマーニ』以降、五車種で共通化比率が五割を超え、販売台数ベースで全体の四割強になる」(『日本経済新聞』一九九三年一二月一日)。

2015年4月18日土曜日

内憂外患

もともと生物は、環境の中に存在しているものから自分の存続に役立つものを取り入れることと、逆に自分の存続に役に立たないものを環境の中へ排出することとを同時に行なっている。このような流れが乱されれば、生物は直ちに自分の崩壊、すなわち死への道を歩み出す。この流れを乱すものの中に生きている、別の生物もある。この場合、宿主である生物に対してその寄生体としての別の生物が、自分の存続を主張するのが原則である。ここでは、この寄生体としての生物が、私たちの身体の内から出てくる場合と外からの場合との二つを、感染症以外にも範囲をひろげて考えてみたい。

内憂外患という言葉がある。これは、一つの国の国内の問題と外国との折衝あるいは争いを、対にした言い方である。内憂外患は、ともに一つの国のまとまりを崩すものと考えられる。一個の生物の場合、これは病気に相当する。とくに病気の原因が生物である場合を考えてみると、いろいろな感染症や伝染病、臓器移植が外患として考えられる。臓器移植で移植された臓器を悪いものとするのはおかしいようだが、生体のもっている原理からすると、臓器移植のあとに起きる現象は、病原体によって起こされる感染症に似ているのである。悪性腫瘍の場合には患者といい、臓器移植の場合には受容者と表現するように、ともにこれらの患者は宿主とは見なされない。しかし生体は、悪性腫瘍細胞に対しても移植された臓器に対しても、感染を試みる微生物に対するのと類似の対応をする。

2015年3月19日木曜日

国務院の一五の部と委員会が廃止された

机の上にその書類が一枚だけあったとしても、ハンコを押さず何日でも放っておく。後で問題が生じ責任をかぶるようになりはしないかと恐れるのである。その国務院官僚が国有企業に粗放型経営を改めよと、改革を指示したところで、相手がそれを承知するとは考えられない。国務院機構を根本的に改造しなければ、国有企業の改革が満足に進むはずがなかったのである。李鵬は原則を述べたが、原則だけでは壁を破ることは出来ない。全国人民代表大会に集まってきた政治家たちにも、改革の最後の壁の所在は十分に分かっていたのだろう。それだけの根回しも、長い期間をかけて、やってきたのだろう。しかし、たぶんにカリスマ的にことを運ばなければ、騒ぎが起こることは避けられない。その人は朱鎔基をおいてなかったのであろう。
 
国務院の一五の部と委員会が廃止され、四つの部と委員会が新設され、三つの部と委員会が改称され、二二の部、委員会、銀行、署が存続することが決定された。現業管理部門は、行政と経営の分離を実行し、企業を直接に管理しないことが再確認された。ただし石油、天然ガス、石油製品、石炭、自動車の五品目の生産・供給計画については、政府が直接に関与する。職務の集中化にともない、定員は半分に減った。余った人員は企業や地方機関などに分散させられるが、それには三年かかるという。朱鎔基は紡績産業をはじめとする、全産業にわだってのスクラップーアンドービルドの実行の責任も背負ったのである。その改革のために、実質失業人口は一一〇〇万人から一三〇〇万人に及び、失業率は六ないし七%となり、建国以来五〇年間での最高を記録している。中国国民の物質生活は、一方では、二十年余りの平和な時代の経済発展によって、いちじるしく近代化し豊かになった。

2015年2月19日木曜日

流入する外国人労働者

外国人労働者の流人も大きな問題になってきている。正規のビザを持つ労働者は、87年で2万5千人程度だが、不法就労者は10万人にも達するといわれている。円高以後は建設現場の土木作業員、飲食業の皿洗いなどの単純労働での就業者が急増している。とくに東南アジア諸国からの流入が目立つ。

確かに、最近の東京では地ド鉄や電車に乗ると、回りに外国人を見かけることが多くなった。マイホームの工事現場で大工さんに話しかけてみたがどうも話が通じない、それもそのはずで日本人ではなかったという話とか、大工の棟梁が大学の教授に、「大学の先生は日本語で仕事ができるからうらやましい」といったという話もある。

こうなるのは経済的には当然のことである。供給側から見ると、日本の賃金が世界一だということは、日本に行って働けば世界一の所得を稼ぎ出すことができるということに他ならない。例えば、「エコノミスト」誌の試算だと、東京の賃令はハンコックの五倍以上となっている。

自分の国では想像もできないような高額の賃金を稼ぎ出すことができるのだから、日本にあこかれるのも当然である。もっとも東京で仕事をすると、東京で生活しなければならず、かなり生活費が高くなることを考えると、外から見た日本の高賃金も額面どおりは受けとれない面もある。

次に需要側から見ると、目本の企業にとっては円高により海外の労働者をきわめて安く使えるようになった。今ではできれば外国人労働者を雇いたいという企業がずいぶん増えている。89年10月に行なわれた経済企画庁のアンケート調査によると、約三分の一の企業が「外国人雇用に対して、職種に制限をつける必要はない」と答えている。

また、現在外国人を雇用している企業は全体の62.7%に達しており、それ以外の企業でも21.9%が今後外国人を雇用する意向があるとしている。日本では。技能労働者の受け入れは認められているが、単純労働者は原則として受け入れていない。

就労を目的として日本に入国が認められているのは、外資系の企業管理者、大学教授、興業活動者、高度な技術提供者、外国料理の料理人などの熟練労働者、外国語教師といった人々に限られている。
この問題は経済原則だけで割り切るわけにはいかない問題であり、だからこそむずかしい対応を迫られている。

西欧でも人出不足への対応策として外国人労働者に頼る時代があったが、それが失業者のハードコアになってしまったり、受け入れ国で生まれた第二世代の帰る国がなくなったり、異文化同士の摩擦が生じたりといった問題が出ている。外国人労働者の受け入れについては、国民的レベルでの相当の覚悟が必要である。

しかし、前述のような経済原則から見ると、外国人労働力が日本の労働市場に参入してくるのは逆らうことのできない流れであるようにみえる。経済の大きな流れに逆らった政策・制度は長続きしないというのがこれまでの経験の教えるところである。

長期的にみると、既存の制度・慣行によって経済原則がおめられるよりは、経済原則に従って既存の制度・慣行が改められていく可能性が高いと思われる。

2015年1月22日木曜日

ゲーム・ウオッチ知ってる?

任天堂初の、そして世界初の携帯型ゲーム機である。ゲームの内容(ゲームソフト)自体は本体に内蔵のROMに書き込まれており、その後のゲーム機のようにロムカセット(カートリッジ)等で異なるゲームを実行することはできない。

タイトルの多くは、難易度が低めのGAME Aと、高めのGAME Bとがあり、どちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり)。この選択方法はファミリーコンピュータの初期タイトルにも使用されている。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来である。後に、アラーム機能も付くようになった。

第1作は「ボール」(1980年4月28日発売)。タイトルにはスヌーピー、ミッキーマウス、ポパイなど他社の人気キャラクターを採用したものもあった。1ハード1ソフトで誰でも手元で遊べる単純さや手軽さが受けて社会現象にもなり、日本での売り上げ総数は1287万個[要出典]を記録している。

1983年にファミリーコンピュータが発売された事を境にブームは移行し「ブラックジャック」(1985年2月発売)で日本での発売は終了。しかしその後も日本国外向けに開発は進められ「マリオジャグラー」(1991年10月発売)まで続いた。またアーケードゲームやファミリーコンピュータの移植版も開発された。1990年代に入ってから、日本国外のみ発売を含むタイトルが逆輸入版として日本で発売されたことがあり、一部の量販店などで輸入トイのような扱いで売られた例もあった。元々ゲーム機は英語表記のため、日本版と逆輸入版との違いは外箱と説明書が英語表記か日本語表記かの違いのみでゲーム機に大きな違いは無い。