2014年11月19日水曜日

法律家が育つ社会の環境とは?

陪審制が民事の領域にも実現すれば、一般市民の感覚が法律制度の運営に反映されることになるのです。そうすれば、裁判官による裁判も大いに刺激を受けることでしょう。現在の制度では、そういう刺激を受ける機会かおりません。

陪審制によって、裁判官と一般人との風通しが良くなります。そのために、アメリカの法律は非常に大きな変革を遂げてきたという面があります。例えば、PL(製造物)責任で無過失責任が定着したことや、懲罰的賠償が定着したことも、陪審制の運用によるところが多分にあります。

アメリカは国家の運営が相当難しい多民族国家でありながら、バックボーンとしての市民社会のインフラがしっかりと備わっているように思うのです。少なくとも、さまざまな不合理や不正には堂々とチャレンジできるルートが開かれています。そこが日本などよりも進んでいるし、見習うべきところではないかと思うのです。

法律家が自分たちだけで裁判制度を運営すると、法律制度そのものがダイナミックな動きになりません。逆にいうなら、一般の人たちが民事裁判においても判断権者として訴訟手続に参加し、その結論が法律関係業界の人々の収入にも関係してくるということになれば、司法を運営する法律専門家も、うかうかしてはいられません。

それこそベールに包まれた中で「仕事のクオリティー」に関係なしに権威が保たれる、というわけにもいかなくなるでしょう。司法の権威を保つには、それに見合ったしっかりとした仕事をせざるを得ないということになります。