2012年12月25日火曜日

おおいに利用されたのは儒教思想である

それなのに、その後、血盆経には月経血についての穣れがつけ加わり、それによって子どもを産めなかった女性をも機れているとみなし、さらには女性という存在そのものに不浄観や、罪深さを広げている。そのような広がりは江戸期に入ってからである。またこの赤不浄ということを考えるうえで、男性修行者(宗教者など)には女性の魅力は断ちがたく、修行を完遂するには女性を「稔れたもの劣ったもの」として忌避する必要があったことも見のがせないし、さらに社会状況との関係も見のがしてはならないと警告している。

そういうことを考え合わせていくと、明治という時代も、このようないわれのない不浄観を助長させ、男女の心を隔てさせた時代ではなかったかと思う。近代化を急ぐため、旧来の風習を、ほとんどが迷信に満ちたものと否定し、棄て去ろうとした明治政府の西欧化政策についてはすでに述べたが、その対象となったのは医療だけではなかったのである。

娘宿、若衆宿、自由恋愛、夜這い、自由意思による結婚、掠奪結婚など、当時の庶民の恋愛観や男女の結びつき観は、基本に夫婦二人の愛情やいたわりや信頼感を含んでいたと思われる。それは国家が陣容をAtとのえヽ安定に向かって整備され人々を富国強兵に向かって収斂し始めると、いわば横一列の平等な情愛による結びつきは非常に都合が悪かった。そのため「家」を基本単位として国民を縦割りに序列化し、人々のきずなや人間関係を分断したのではないかと考える。国家は天皇と庶民の「家」とに、「家」は親と子、跡取りと次こ二男、男と女という縦の上下関係へと整備された。天皇は親、国民は子、国家は家族という擬似家族としても位置づけられた。

この位置づけの時、おおいに利用されたのが儒教思想であり、女性不浄論ではなかったかと思われる。したがって、「女の人のお産は不浄だからデーベヤで暮らすことになっていたらしいけど、私にとっては仕事もせんと1ヵ月間、女同士おしゃべりしたり、自分のものを炊いて食べて洗いものと子育てだけの生活は本当に楽しかった。デーベヤ友達は、いまでも仲よしにしている」(伊吹島、Lさん、六二歳)とか「人生の花だった」というこれらの言葉は、仏教における女性不浄論の存在を過小評価してはいけないといましめつつだが、それでもなおその庶民の暮らしの本流に、女性に対する平等観や産婦への特別重視待遇(米との関わり)があったと考えてもいいのではないかと思う。

さらに、お産の血を忌むのならば、なぜ出産が自宅で行なわれた後、日を改めてサンヤ入りするのかも解せない。これらの思考から、どうやら女性の不浄視や劣等視によるいわれのない男女の性差別観が、庶民の間に根をおろし、拡大されたのは、私たちの手の届きそうな近世であり、しかも為政者の意図的なものである可能性が高いと思われる。