2016年4月19日火曜日

顕示的消費から「自己開発志向」の消費へ

ギークたちは、既存のビジネス文化や学校文化がもつ権威的な慣習を、根底から塗りかえようとしている。彼らは、けっして孤立したアトミズムの世界を卦きているのではない。彼らはむしろ、横のコミュニケーションを通じて、現代社会を変革するための、グローバルな共同性を模索しているのである。学校の規律訓練権力に従わなくても、あるいはルックスが悪くて礼儀や身形に欠けても、IT社会は、ギークたちに魅力的な自己実現の機会を提供してきた。既成観念や既成慣習にとらわれずに生きるという意味での「自由」は、アメリカではまさに、ギークスのような人々によって実現されたといえるだろう。

ギークスのなかでも野心的な人々は、IT革命の聖地であるシリコンバレーに結集し、「シリコンバレー精神」を生み出してきた。八〇年代におけるポストモダン革命の担い手たちが、「記号の消費」に興ずるブランド消費者たちであったとすれば、現代のIT革命の担い手たちは、一見すると役立ちそうにない事柄に熱中する「オタク」や「ギークス」だ。「オタク/ギークス」は、創造階級の一部として台頭しつつあり、私たちは現在、次のような選択を真剣に迫られている。

すなわち、はたして企業に就職してつまらない仕事に甘んじる「スーツ」となるのか、あるいは、いかに虐げられようとも、地下の世界に沈潜して「創造者」となるのか、という選択である。成熟した「豊かな社会」を生きる私たちにとって、「生き方」をめぐる問題とは、「きらびやかな消費生活」を手に入れるためにあくせく働くことよりも、「自分で熱中できること」をみつけて没頭したほうが、いっそうすぐれた生活になるかもしれない、という点であろう。熱の冷めた「ブランド男/ブランド女」になるよりも、没頭できることをみつけたほうが、よい人生といえるのではないか。

2016年3月18日金曜日

法整備に関する政治家の愚策

裁判制度を動かしているのは、政治家ではなくて、法律家であるのは確かです。しかし、法律をどういう内容にするかは民主的に決められるわけで、それは基本的に政治家の仕事です。私のような弁護士がとやかくこんな主張をしていること自体が、ちょっとズレているかもしれないわけで、日本の政治の貧困の象徴のような感じさえします。

政治家には、しっかりとした法律を作ってもらう必要があります。単に「権利」を作ってもらうだけでは不十分で、その手続や実効性をしっかりと確保する方法まで含めて、がっちりとしたものを作ってもらわなくては無意味です。

お金を貸すとき、しっかりとした金融機関は担保を取ります。それと同じように国民も、ちゃんと法律が守られるような担保を取らないといけないのです。国民の立場からしっかり担保を取っておかないと、結局「不良債権」と同じような、あまり機能しない「不良な法律」がはびこることになってしまいます。

その担保にあたるのが「効果的な手続」というものであって、もう少し具体的にいえば、使いやすい窓口、権利を実行するための人や組織、あるいはそれらを裏付ける予算措置が備わっているということなのです。

単なるアドバルーン的な、「絵に描いた餅」のような法律はもうお断りだ、というつもりで、国民も厳しくチェックしていく必要があると思います。制度に問題かおるなら、国民が声をあげて法律を変えさせるところまでやらないとダメなのです。

これからの日本の政治家には、是非その上うな点に配慮した改革をやっていただきたいものです。口先だけで「絵に描いた餅」をいくら作っても、あるいは一時的にお金をばらまくような人気取りをいくらやっても、盲六の構造改革は進みません。